「どうする、リノア。この人……」 まだ名前も知らぬこの命を前にして、リノアとエレナの心の奥で何かが揺れていた。 沈黙がひととき、二人を包む。 けれど、すぐに言葉がそっとこぼれ落ちた。「このままにしておけないよね」 そう言って、リノアは黙って少女を見下ろした。 その寝顔は、あまりにも無垢で──まるで、剣を振るったことなどなかったかのようだった。 リノアは息を吸い込み、そして肩の力を抜いた。「起きるまで、待っていよう」 その言葉は責めるでもなく諭すでもなく、ただ穏やかだった。「そうね。ここに置いていくわけにもいかないし」 エレナは頷くと、ふと夕暮れの空へ視線を向けた。「西の空が朱く染まってる……」 霧の帳が少しずつ薄れ、そこから覗いた光は黄金色ではなく、淡く紅を帯びていた。光はすっかり柔らぎ、崩れかけた輪郭の太陽が、まるで染み込むように空に溶け込んでいる。「出発したのは、朝の霧が濃かった頃よ。それから影と戦って、囚われて、あの人たちを逃がして……ここまで来るのに随分、時間が掛かっちゃったね」 エレナが苦笑した。 リノアは地表に映る自分の影に目を落とした。斜めに延びた輪郭が岩肌に静かに溶け込んでいる。 日が沈むまで、あと一刻あるかないか。 ふたりの間に沈黙が落ちる。「今日はここまでにして、休憩しようか」 エレナがそう言った後、少しの間を置いて、もう一度口を開いた。「念のために縛っておこう」 横たわる少女に、危険な印象はない。だが、名も素性も知れぬ人間に油断するわけにはいかない。何もせずに放置するのはあまりにも無防備すぎる。 この少女が誰かを傷つけようとした事実は揺るがないのだ。 リノアとエレナはロープの代わりになるものを探した。「これなら大丈夫じゃないかな」 リノアは蔓を引っ張って強度を確かめると、手にした短剣で素早く切り裂き、柔らかな繊維を器用に編み始めた。「本当は、こんなことしたくないけど……仕方ないよね」 エレナはリノアから蔓を受け取ると、少女の手足を傷つけぬように、しっかりと縛った。「どんな人か分かんないしね」 リノアが肩をすくめながら呟いた。 二人は少女のそばから少しだけ離れ、岩陰へと腰を下ろす。 霧の向こうにはまだ川のせせらぎが響いている。 リノアはその音に耳を澄ませながら、そっと目を伏せた。
霧が足元を撫でるように這い、音もなく世界の輪郭を揺らしている。 霧が微かに揺れる中、ふたりの視線は前方へと向けられた。「眠った?……」 リノアは安堵の吐息を漏らす。「分からない。近づいてみよう」 エレナは身を低くし、矢を弦にかけたまま茂みへと忍び寄る。 霧がふわりとほどけ、輪郭のぼやけた人影が姿をあらわす。──寝息。間違いない。 霧が揺らめく中、少女の寝息が耳元でささやくように響いている。 それは確かに生きている者の寝息だった。その音には攻撃の気配も警戒の色もない。 まるで心を閉じたように、深い眠りに沈んでいる。「……女の子?」 リノアの声が、その場の緊張を解いていく。 短く切り揃えられた髪。まだ年若く幼い顔立ち。血の気を失った頬は夜気に染まり、長いまつげの奥で目が閉じられている。その姿は、あまりにも無防備だった。 エレナもそっと覗きこむ。「私たちと、歳はそれほど違わないかも」 少女の身体に戦いの痕はほとんど見当たらない。「どうして……こんな場所にいるんだろう」 リノアが声にならない問いを漏らす。「戦いに加わったって感じじゃない。動きも荒くなかったし、それに装備が整ってない。慣れた感じがしなかった」 エレナは地面に散らばる矢の残骸に目を落とし、首をゆっくりとかしげる。「見習いか……あるいは、何らかの訓練だったのかも」 相手は女性と子どもだけだった。練習相手としては、うってつけだったと言える。「このマーク……何だろう?」 リノアは、少女の首元に施された刺繍を見つめた。 星々が重なり、夜空の記憶を封じ込めたかのような印──「どこかに所属している人なんだろうね」 エレナが呟いた。「だけど、見たことがない……」 リノアが言い、エレナが小さく頷く。 リノアとエレナが住むクローヴ村は戦乱の後、争いとは無縁の生活を送った。近隣にも武装した集落はなく、争いの気配は感じられない。 だからこそ、その姿が違和感のように胸の奥に残る。 この人は、どこか遠い土地から来た人なのかもしれない。 目の前で眠る少女の表情は、あまりにも穏やかだ。 緊張も恐れもなく、無防備なまま霧に包まれている。争いなど知らずに育った子ども──そんな印象すら抱かせる。 エレナは目を伏せた。 少女の周囲に散らばった矢の破片が、やけに場違いに見える。
アリシアは風に髪をなびかせたまま、ゆっくりとヴィクターへと向き直る。 先ほどのヴィクターの言葉──「グレタ以外にも動いている」 それが何を意味するのか、ヴィクターの口ぶりからでは、まだ判断することができない。「さっき言ってたよね。グレタだけじゃないって。その人たちも探しているものは同じ?」 海鳴りを背にアリシアは真っすぐヴィクターを見据えた。 アリシアの言葉を受けたヴィクターは、記憶の断片を繋ぐように指を組む。「軍人でも商人でもないって話は、さっきもしたよな。奴らで気になったのは、妙に威圧的なところだ。グレタでさえ、逆らうことができない雰囲気があった。あいつらは“命令を受ける側”じゃなくて、“決める側”の人間だな」「じゃあ……グレタは、その人たちの命令で動いてる可能性があるってこと?」 ヴィクターは肯定も否定もせず、ただ、少しだけ首を傾けた。「もしかするとな。少なくとも立場は対等じゃない。心なしか、グレタが委縮してるように見えたしな」 アリシアは指先で潮風を払うように目元に触れ、考え込んだ。 グレタは操られているか、組織に属しているかのどちらか—— いずれにせよ、“本当の連中”はまだ姿を現していない。 その陰に潜む者たちは、一体、何を目的に動いているのか。「ヴィクター、前に酒場で会ったって言ってたよね。どんな人たちだったか、思い出せる?」 アリシアが問いかけた。 少ない情報から推測していくしかない。「黒い装束に……たしか喉元には刺繍があった。あと聞いたことのない言語を話してたな。グレタはなぜか理解できてたみたいだが……。あれは、この辺りの人間じゃない。異国から来た連中だ」」「その刺繍の模様は?」 セラが身を乗り出して訊いた、「星を重ねたような記号だった」 ヴィクターが記憶を手繰るように答えると、セラが思わず声をあげる。「星を重ねた刺繍……それって、もしかしてゾディア・ノヴァの印かもしれない」「ゾディア・ノヴァ? 何それ」 アリシアが言った。ヴィクターも首を傾げている。「昔、お父さんの書斎で見た記録の一頁に、その紋章が描かれてたの。アークセリアとは異なる。境界の外、干渉を禁じられた領域に属する者たち。その紋章を掲げる集団は、“形無き同盟”と呼ばれてる。みんなも知っていると思います」 一拍の静寂ののち、セラが口を開
アリシアは、その言葉を聞いて胸につかえたものが取れたような感覚があった。ヴィクターを疑ってはいたが、その反面、信じたいという気持ちがあったのも事実だ。 ヴィクターが自らの意思で悪事に手を染めるような人間ではないことは、誰よりも理解している。 常に誰かの影に身を置き、必要とされれば動く。だが、それ以上のことを求められたとき、ヴィクターは一歩、身を引く男だった。度胸が無いとも言えるが、そこまでの悪人とは言えない。「利用された」──ヴィクターの言葉には妙な説得力があった。 てっきり、人が変わってしまったのかと思っていた。けれど、今こうして話すヴィクターには、かつての面影が確かに残っている。 祭りの日、リノアに取った行動に対しての、後悔している。という発言も、あながち嘘ではないだろう。「まったく……俺は必死で手伝ってたのにさ」 ヴィクターが口をつぐみ、森の冷えた空気を思い出すように目を細める。「リノアを探しているのは、俺だけだと思ってた。けど違ったんだ」 声には熱がこもり始めていた。押し殺していた悔しさが、言葉に染み出す。「きっとリノアの情報を引き出すために接触してきたんだろうな。リノアがどこに行ったのか、何をしに行ったのか。そんなこと訊かれても俺に分かるわけがねえよ。俺だってリノアを探してたのに……」 拳がゆるく握られる。それは怒りよりも、悔しさに近かった。「なのにさ。森の中で泥だらけになって、言われた通りに手伝って……。使えないと思った途端に、あっさり切り捨てやがってよ」 アリシアはヴィクターを黙ったまま見つめた。 ヴィクターは何かを失いながらも、誰かの役に立ちたいという一心で動いたのだ。 勇気を振り絞って踏み出した先で、知らず知らずのうちに誰かの思惑に絡め取られていた。それでも、ヴィクターは信じるものに向かって動いた。 そんなヴィクターを責め立てるわけにはいかない。 海風が吹き抜けるなか、場の空気はなお重たく沈んでいる。 そんな沈黙に、セラがそっと咳払いをひとつ落とす。「あの……探してたのって、本当に鉱石なんですか?」 セラの声は重く垂れ込めた空気に細い切れ目を入れるように慎重だった。「ああ、そうだと思うが……」 ヴィクターは沈黙の淵から視線を持ち上げ、セラを見る。 少し間を置いてから、セラが踏み込むように続けた。「
他にも動いている人たちがいる? アリシアのヴィクターに向ける視線には怒りも非難もない。言葉の裏にある真実を探るような確かな意志が込められている。 一言ごとに距離を測るように思考を深めるその様子は、揺るぎない芯を持った者の姿だった。 アリシアはその言葉を反芻しながら、ヴィクターを見据えた。「その人たちって誰なの?」 アリシアは唇をきつく閉じたままのヴィクターの顔を、じっと見つめた。 言葉を待つ間も、アリシアの視線は揺らがない。 それは問いを投げたというより、答えを引き出す意志そのものだった。「ヴィクター、本当は知っているんじゃないの? 正直に話して」 アリシアの瞳がヴィクターを射抜く。「ちょっと、待ってくれよ。俺は詳しくは知らないんだ。一度だけ、グレタが誰かと話しているのを見ただけで……」 言い訳のように紡がれた言葉は、かえって何かを隠しているように見えた。「それはどこで?」 声に怒気はない。だが問いは鋭く、ヴィクターに逃げ道を与えない。「酒場だ。街の真ん中にある店で、まるで何も隠す気がないように会っていたよ」 ヴィクターの口調は淡々としている。「相手は軍人でも商人でもなかった。何か……もっと違う雰囲気だった」 アリシアが、ちらりとセラへ視線を送る。「私がクローブ村の近くで見た人たちも、そんな感じだったかな。黒いマントを着ていたと思う」 そう言って、セラは苦い顔をした。「ということは──連中はこの事態に、裏から関わってるってことになるよね?」 アリシアは再びヴィクターに向き直る。 アリシアの問いは鋭く、沈黙を許さないものだった。 ヴィクターが答えかねて口をつぐむ中、波音が静かに会話の間を埋めていった。 海岸に面した街の空気は、塩を含んだ湿気で肌にまとわりつくような重さを持っている。 沖合では、かつて漁師たちの目印だった灯台が、いまや色褪せた鋼鉄の影として佇んでいる。 浜辺には焦げたような油膜をまとう漂着物が増え、潮の満ち引きと共に、異臭と腐食の気配が運ばれていた。 気象記録員の報告に、「水質成分の異常」「海流の変調」「毒素の蓄積による魚種の激減」が並んでいたことを思い出す。 それは排水による汚染。そして原因不明の発光を伴う藻の異常繁殖といったものだった。人為的な搾取の影響によるものだ。「夜になると波が引いてい
遠ざかっていく水音の中、リノアは、その場に立ち尽くしていた。 霧に紛れて消えた二人を呆然と見送る。 森の深みへ消えていった女性。 間違いなく、あの人は…… 言葉にならない想いが喉に詰まる。「リノア、油断しないで。まだ何体か残ってる」 エレナの声が背後から届いた。 霧の陰で動く影。 ひとつ、またひとつ──散らばる影が音もなく足元へ迫る。 エレナは指を弦に掛けた。 視界の外縁に残る敵の動きが、風の揺らぎに微かに浮き上がる。「残ってるのは、三体。数が減ってる。私たちの攻撃が効いているのかもしれない」 エレナは冷静に言った。 この場に居るのは、わずか三つの気配だけ。目の前にいる二体、そして森の中に潜む一体だ。 先ほどまでの統率は、もうなさそうだ。殺気も薄れ、動きも、どことなく遅くなっている。 それでも油断はできない。 散った獣ほど不規則に動き、深く食い込んでくるものだ。この者たちも例外ではない。「あいつ逃げる気なのかな」 リノアは森の中へ引き返す一体を目にして言った。「そう見えるね。あれがこの群れを操っていたリーダーなのかも。多分、人間よ」 エレナが答える。「あとは任せて、私一人で大丈夫」 そう言って、エレナが敵を見据え、そっと矢筒に手を伸ばした。 足元に目をやり、湿った地表に狙いを定める。矢が放たれ、雷光石が地を這った。 バチン! 閃光とともに電流が地表を這い、一体が足を取られて崩れる。 エレナは短弓に持ち替えると、眉ひとつ動かさず連射した。 矢が斜め下から心臓部と思しき位置へ次々と打ち込まれていく。 三本目が着弾した瞬間、二体目が呻きながら膝をついた。「さて、最後の一体……」 茂みの奥、逃げる人影が一瞬だけ姿を見せた。 砕けた鎧の隙間から覗く、細身の輪郭。揺れる布が風に翻る。「やっぱり人間だ……」 リノアが呟く。 エレナは頷いたが弓を下ろさなかった。 エレナの指先が最後の矢へと滑る。 羽根の根元には鈴のような装飾──小さな銀の球が一つ付けられている。『風語の鈴』 狩人たちが眠りのために用いる、静かで優しい凶器だ。「それ効くの?」 リノアが問う。「分かんない。取りあえず使ってみる。効果を発動させるには衝撃が必要と言ってたっけ? ちょっと遠いけど、風に乗れば届くでしょ」 エレナは弓を引い